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横浜ホテル(Yokohama Hotel 1860-1866)は1860年(万延元年)に横浜外国人居留地に開業した日本で最初のホテル。(異説あり、後述) ==概要== 1858年(安政5年)の日米修好通商条約によって1859年横浜に外国人居留地が設けられたが、出来たばかりの外国人居留地では宿泊施設がなかった。そのため、1860年(万延元年)2月オランダ人の元船長フフナーゲル(Huffnagel)は横浜外国人居留地内に横浜ホテルを開業した。この横浜ホテルは日本で最初のホテルとされている〔富田2003、14-18頁。〕〔横浜開港資料館2010、184-185頁。〕。 フフナーゲルは上海の英字紙「North China Herald」1860年3月10号に横浜ホテルの開業広告を出し「公衆の長い間の渇望に応えた」と述べている〔。 横浜ホテルは和風・洋風混合の様式で、建物はコの字型の和風外観の平屋建て。片側に食堂、ビリヤード室、バーがあり、反対側が居間と寝室、離れに厩舎もあった〔横浜中区史1985、288頁〕。 横浜ホテルは史料によっては「Hotel Hufnagel」とも書かれ、晩年のシーボルトや画家ウィルヘルム・ハイネなども宿泊したとされている。1860年に日本を訪れたグスタフ・シュピースは「シュピースのプロシャ日本遠征記」という書簡のなかで横浜ホテルについて、建物自体は日本家屋だが、風通しの良い食堂と、撞球室、バーなどが備わり、部屋にはテーブル、イス2脚が備わっていたと書いている。しかし、ベッドは「一種の寝台」とし、窓やストーブもなかったともしている。1860年には横浜ホテルは横浜外国人居留地では唯一の撞球(ビリヤード)が出来る場所として人気があったともいう〔。 シーボルトの紀行文の一節にはフフナーゲルの横浜ホテルに泊まったことと、料金が1泊2ドル、1ヶ月連泊で50ドルだったことの記載がある〔。 横浜外国人居留地ではオランダ人フフナーゲルの横浜ホテルに続き、イギリス人の経営する「横浜クラブ」、「アングロ・サクソン・ホテル」〔、「ロイヤル・ブリティッシュ・ホテル」〔、フランス人経営の「ホテル・デ・コロニー」(Hôtel des Colonies)などが開業していく〔滑川1995、163頁。〕。 これらの日本の最初期の横浜居留地内ホテルの多くは、船乗り出身者が経営していたといわれる。長距離航行する船乗りは船室の整備や食事の用意、設備の維持などホテルに必要な業務の多くを船乗り業務で心得ていたからではないかといわれている〔。 しかし、横浜居留地では1866年(慶応2年)大火事「豚屋火事」がおこり、ホテルの多くは焼けてしまった。フフナーゲルの横浜ホテルも焼け、日本最初のホテルの歴史はそこで終る〔。以後、横浜居留地では日本家屋の町並みが西洋風へと改められていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横浜ホテル (横浜居留地)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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